pagumixのブログ

むかしのはなし

私の沢口靖子は三浦春馬だったのかもしれない

 

 

夢に三浦春馬が出てきた

 

 

 

 

ただの妄想と変わりない夢を思い出して、

綴ろうとするだけでもこみ上げてきてしまうものだから本当にどうしようもない、と思う

 

ちょうど49日の朝だった

 

朝起きて、私は泣いていて、

 

そもそも仏教は信じていないし、亡くなった後がどうとか、信じる人の話を聞くことは好きだけれど、自分には関係のない話としてしか見てこなかった

のに、ああ、なんてタイミングで現れてくれちゃうんだよ

 

なんて考えながら1日を過ごした

 

 

私は別に、SNSで彼のファンアカウントをフォローしていたわけでもなければ

彼が出演する作品の全てを片っ端から網羅していたわけでもない。

舞台にだってずっと、行きたい行きたいとは言いつつも

次やるときは絶対、などと理由をつけては結局一度も足を運ぶことはなかった。

 

好きだったのは彼の歌う姿、考え方、表情、人柄

二年ほど前に、NHKで放送されていた『世界はほしいモノにあふれてる』

にたまたま出会い、JUJUさんと一緒にロンドンの街を旅する

あまりにも素敵な姿に目が離せなくなったことがきっかけだった。

 

本当に、

ひとつひとつの小さな表情だったり相槌、

毎回ゲストとして出演する様々な職業で働く方達の

多様な生き方、価値観に共感し、わかろうとする姿勢の現れのその全てが

彼が愛すべき人間であることを物語っていたように思えて仕方がない

 

そんな彼が可愛くて可愛くて仕方がなかったのだと思う

JUJUさんが三浦さんに対しておどけたり、ふざけたりして

それをたしなめつつもきらきらと笑う様子から

ふたりの居心地のいい関係性を何度も垣間見ることができた。

 

面白くて、やさしくて、思わず見ているこちらが幸せになってしまうような

番組を作り上げたのは言うまでもなく、息の合ったふたりのMCがあったからだろう。

大袈裟ではなく、私の様々な世界に対する興味の幅を大きく広げてくれたのがこの番組だったと確信している。

私はあまりテレビを見る方ではなかったが、これだけは今まで毎週欠かさず見ていた。

この人本当にかわいい…光がさしてるよ…かわいい…と画面に向かって言い続けて母に笑われたこともあった。

 

 

そんな大好きな番組も、あのニュースを知ってから見れずにいる。

 

目を背けたままここまできてしまった。

 

テレビで取り上げられているのを見ることはもちろん、その後放送された番組を見た人たちや、ニュースに対するネット上での反応すら、怖くてとても見る気になれない。

 

きっと今まで生きてきた中で、三浦春馬と言う人間を意識してくることのなかった人たちが彼の最期をきっかけに、彼に "出会って" とやかく言うことを受け入れることができない。

 

この期に及んで現れた自分自身のドス黒い嫌な部分に目を向けることも怖かった。

 

こういった出来事に際して私はセンシティブすぎるのかもしれない。

 

私は身近な人の死を近くで感じてきたことがなかった。

父方の祖父は私が生まれる前に亡くなっていたし

半同居していた曽祖母は確か私が幼稚園の頃に亡くなったが、葬式含めあまりはっきりと記憶に残っていない。

他の親戚はありがたいことに健在なため、犬やかれこれ十年以上生きている亀を含め、20年と少し生きてきた中で、私の近くで誰かが亡くなる、という出来事がほんとうに無かったのだ。

 

だからこそ、生きている存在にはいずれ終わる瞬間が訪れる、といった

あまりにも当たり前すぎる話に鈍感だった。

 

趣味で長く浸かっている洋画の界隈においてもそんな自分を実感する機会は多くあって、

高校生の頃には見た映画に出演していた俳優や、

来日した際開催されたイベントに足を運び、生で会ったこともある人の訃報を受け、

ショックで、しばらく使い物にならなくなってしまったこともあった。

 

その度に思うのは、

生きている人を応援したり、好きでいることには

それなりの覚悟や心構えが必要だ

ということである。

 

あるかどうかわからない"次" よりも、

確実な "今" をなによりも大切に

好きなら好きだと本人に伝えること

やらなくて少しでも後悔する可能性があるのなら

その可能性を減らすために今の行動を選択し続けたい。

 

 

 

これがほんとうに難しい!

 

 

 

いざ選択肢を目の前にすると、どんなに堅い決心があっても

揺らいでしまう瞬間は訪れるし、

その揺らいでしまった弱さが原因で後戻りできなくなってしまうことだってある。

 

何度同じことを繰り返せば学ぶのかと、不甲斐ない自分に腹が立つ。

 

この2ヶ月弱もそんな、自分を責める感情の多い期間だったように思う。

怖くてそもそもこの件に関して考えることを放棄していた。

 

 

まだ私はこの悲しみと後悔の中から抜け出すことはできていないし、

このことについて深く考えようとしている今も、感情の波に胸が苦しくなる。

 

 

しかし 人は変われない

 

 

弱いところも含めて自分自身を受け入れていかなければならないのだ、と思う。

 

変われないジレンマと、目を背けておきたい自分の汚い感情と、それでも後悔しないよう、前に進みたい気持ちと

なんとか折り合いをつけながら

上手でも綺麗でもない生き方を受け入れながら

それでもどうにか

過ぎていったものたちに対する感情を無かったことにしないことでようやく、

これからやってくる未来のことに目を向けることができるのではないかと思う。

 

 NHKの番組や、他のインタビューなんかで生き生きと "これからのこと" を

語っていた姿を思い出しては

どうしてあんな純粋で、美しくて、やさしい彼が、なんで

と思わずにはいられないし

そんな彼が生き続けることができなかった世界に、ある意味絶望を感じる。

 

もちろん画面を通して見る姿と、そうでない瞬間の姿が一致しているなんて思っているわけではない。

公にさらされることのない顔がいくつあったっていのだ。

むしろその部分を大切にして欲しいと思う。

しかし思い出せるのは、私自身が見て、感じたテレビに映る姿だけなのだ。

 

基本的に画面に映る人間を見る側の私たちは、当たり前だが、

自分たちが見ない、見ることのない姿があることを大前提にメディアに向き合わなければならないと思う。SNSも含めて。

そこに映る姿としてしか人を認識できないことは、ほんとうに危ない。

毎日多くのニュースを目にする中で、立て続けにそれを意識するタイミングが訪れている。

こんなところに書いたって誰かの意識が変わる可能性は限りなく少ないし、

一番そのことに気づかなくてはならない、

明らかにいってはいけない一線を超えてしまうようなひとの多くは

これからも変わらず平気な顔をして日々を過ごしてゆくのだと思う。

 

私は自分のために、

モヤモヤしていて行き場のない感情を抱いているわたしに向けてこれを書いている。

 

 

 思い出したのは以前オンラインで読んだ漫画だ。

daysneo.com

 

この、『俺は沢口靖子のことを何も知らない』は、

好きだからこそ、知らないでおく、という選択肢をあえて取ること

についてをテーマにしている作品だが、

この作品における『沢口靖子』の存在が今になってすごく腑に落ちた。

 

私も三浦春馬を "知らない" ということを盾にしていたから

好きでい続けることができたのかもしれない。

 

俳優として様々な役を演じ、その度に違った表情を見せる彼の姿を

仕事以外で見せる姿を

何を考えて

何を思って誰と生きたのかを

それこそ何も知らなかったからこそ純粋に好きでいることができて

そのなくしたものの大きさに呆然としているのかもしれない。

 

ああこんなにちゃんとファンだったんだ、と今になって気づいてしまった。

 

今までを生きた彼のことを、これから直接新しく知ることはできないし、

本人に何か声をかけることすらもうできなくなってしまった。

今までのことだって推測や想像でしか補うことはできない。

 

 

 

訃報から一週間くらいが経った頃、

JUJUがオンラインで生配信のコンサートを行うと知り、何か考えるきっかけを見つけることができるかもしれないと参加した。

番組の主題歌であった "Remember(The Good Times)"

を歌い上げた後、彼女が語った言葉が印象的だった。

 

『世界はほしいモノにあふれてる』 の話題に触れ始めるとやっぱり、色々なことに触れた方がいいのかなと思うんです。

ただ、思い出があるので、その話をするには今の倍の時間がかかります。

そして、それを今ここでやってしまうと、皆さんここから4、5年抜け出せません。

 

 これは本当にその通りだと思った。

思いの丈や感じたことを全て語ることが、よくないループから抜け出す鍵になるとは限らない。むしろその思い出が私たちを捉えて、よくない方向に引きずり込まれてしまうことだってある。

 

 

だからこそ、向き合うべき時が来たと感じたら

やり場のない想いも、矛盾も、妥協も、全部ひっくるめて

知らないまま好きでいること

知ってしまって複雑な気持ちを抱くこと

その両方の感情を否定せずに向き合っていきたい。

 

弱い部分や消耗する感情に寄り添い過ぎてしまうことは危険だ。

でも、それに目も向けず無かったことにしてしまうなんてこと私はしたくない。

 

 

あのなんとも言えないタイミングで訪れた夢からも

二日が経って落ち着いて、それをきっかけに

ずっと意識的に目を逸らし続けてきた事実に今、ようやく向き合う機会を作ろうと思ってこの文章を書くことにした。

正直受け入れられていない部分も山ほどあるし、

これからもきっと何度も思い出しては立ち止まってしまうこともあると思うけれど、

不器用でもうまく折り合いをつけながら

生きてゆけるようになりたいと思う。

 

あまりにも取り止めのない文章になってしまったけれど、

今、感じているのはこんなところだ。